袋物、職人や袋物商たちの歴史について4つの章で概観!たばこと塩の博物館「時代とあゆむ袋物商 たばこ入れからハンドバッグまで」

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たばこと塩の博物館では、2024年4月27日(土)から6月30日(日)まで、「時代とあゆむ袋物商 たばこ入れからハンドバッグまで」展を開催します。

 

たばこと塩の博物館「時代とあゆむ袋物商 たばこ入れからハンドバッグまで」

 

名称  : 「時代とあゆむ袋物商 たばこ入れからハンドバッグまで」

ヨミ  : ジダイトアユムフクロモノショウ タバコイレカラハンドバッグマデ

会期  : 2024年4月27日(土)~6月30日(日)

前期:4月27日(土)~5月26日(日)

後期:5月28日(火)~6月30日(日)

主催  : たばこと塩の博物館

会場  : たばこと塩の博物館 2階特別展示室

所在地 : 東京都墨田区横川 1-16-3(とうきょうスカイツリー駅から徒歩10分)

電話  : 03-3622-8801

FAX   : 03-3622-8807

URL   :
https://www.tabashio.jp

入館料 : 大人・大学生:100円/65歳以上の方:50円/小・中・高校生:50円

開館時間: 午前10時~午後5時(入館は午後4時30分まで)

休館日 : 月曜日(ただし、4月29日、5月6日は開館)、4月30日(火)、5月7日(火)

 

※やむをえず開館時間や休館日を変更する場合があります。

最新の開館情報は、公式Xかお電話で確認してください。

※本展は会期の前期と後期で一部作品を入れ替えます。

 

和装が主流だった時代、貴重品や懐紙、たばこなどを携帯する際には袋物が用いられ、江戸から昭和の初めごろまで紙入れやたばこ入れがその代表的な存在でした。

これらは懐に収めたり腰から提げたりして用い、装身具としても重要なものでした。

たばこ入れは構成部品が多く、各部品にさまざまな素材が用いられることから、凝った装飾のものが多く作られました。

さらに明治9年(1876)に廃刀令が出されると、刀装具を製作していた腕のよい職人たちが袋物を含む日用品も手がけるようになり、たばこ入れは技術の粋を集めた美術工芸品として黄金期を迎えます。

明治維新後は、西洋を手本とした近代化のなかで、和装での暮らしに寄り添ってきた袋物にも機能や形の変化が求められ、西洋由来のハンドバッグなどに近づく流れも生まれました。

この時流を感じ取った日本橋の袋物商・井戸文人(いどぶんじん/1874~1923)は、大正8年(1919)に袋物に関する初の通史『日本嚢物(ふくろもの)史』を著しました。

本展は『日本嚢物史』に沿って、袋物、職人や袋物商たちの歴史について4つの章で概観します。

たばこ入れを中心としたさまざまなジャンルの袋物、金具などの部品、絵画資料や書籍など約300点の作品を通して、袋物の持つ用と美、時勢に呼応した変化、そして変わりゆく時代の需要に応え続けた職人や袋物商たちの仕事を紹介します。

 

Photo.01 金唐革腰差したばこ入れ

 

【展覧会の構成と作品紹介】

I 出かけるお供に袋物

日本における袋物の歴史を紐解く際に、火打袋が登場する『古事記』中の一節かがよく挙げられます。

東征にあたって倭健命(やまとたけるのみこと)が叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)から袋を授けられ、その中に入っていた火打石で難を逃れたというものです。

やがて、火打袋は旅の持ち物として定着し、銭や数珠などを入れることもあったようです。

ほかにも守袋や巾着などが出かける際の袋物として用いられていました。

16世紀末にたばこが伝来し、喫煙習慣が定着していくと、喫煙に必要な道具も携帯されるようになります。

当初は既存の袋物を転用していましたが、やがて専用の「たばこ入れ」が登場しました。

たばこ入れは次第に装身具の性格を帯びるようになり、ついには幕府の奢侈禁令に触れるほど素材や細工に凝ったものが作られるようになりました。

本章では、たばこ入れを中心に、お出かけのお供として作られたさまざまなジャンルの袋物を紹介し、かつての日常にあった袋物の数々をご覧いただきます。

 

Photo.02 無款 「旅風俗」 [後期展示]

 

寛永(1624-1644)ごろの旅風俗が描かれている。

馬上の荷物にはきせる袋を結んだ長きせる、画面左奥の男性の腰あたりには提物がみえる。

 

Photo.03 喜多川藤麿 「大原女花見図」 [前期展示]

 

中央の女性は右手に一つ提げたばこ入れ、左手には布製のきせる袋を結びつけたきせるを持っている。

19世紀前半ごろの作品。

 

Photo.04 いろいろな火打袋

 

根付や火打金をつけた実用的なものや、江戸時代の考証本に載るような古い形を模したものなど、さまざまな形態がある。

 

Photo.05 金唐革胴乱形たばこ入れ

 

胴乱は提物の一種で、もとは弾薬入れとされる。

たばこ入れとしても使われていた。

 

Photo.06 鹿革早道

 

早道は銭入れの一種。

上の円筒部に小粒の金銀を収め、下の袋部分に銭やたばこを入れ、提げて携行する。

 

Photo.07 松に藤刺繍女持ち懐中たばこ入れ

 

懐中たばこ入れは、懐や袂に入れて携帯するもので、鞐(こはぜ)留めのものが多く残っている。

 

Photo.08 茶織物・籐石畳編袂落し

 

両端の袋にたばこ入れや手ぬぐい、小物などを入れ、紐は背中側に回し、それぞれの袋を左右の袂に振り分けて使用する。

 

Photo.09 引出し付き一つ提げたばこ入れ 個人蔵

 

引出しの中には象牙と竹でできた薬さじが入っている。

 

 

II 見どころだらけのたばこ入れ

たばこ入れの袋、前金具、きせる筒、根付といった各部品に用いられた素材や装飾技術は、それらを組み合わせてできたたばこ入れとしてはもちろん、部品単体としても人々を魅了しました。

金工や漆芸、革工芸のように分野として成立しているものから、呼び方の定まらない細工類まで、たばこ入れに関わる工芸分野は非常に幅広いものです。

さまざまな工芸分野が関わる袋物の製作過程には、豊富な知識に裏打ちされた袋物商たちの存在が不可欠でした。

彼らは各素材を吟味し、取り合わせを工夫し、それぞれの分野の職人と良好な関係を築きながら差配することで、顧客が望むものを完成させるプロデューサーのような存在でもありました。

明治維新を経て身分による持ち物の制約が緩む中、明治9年(1876)に廃刀令が出されると、刀装具を製作していた職人たちが本来の仕事を失いました。

職人たちは袋物を含めた生活用品に腕を振るうようになり、袋物は「見て楽しむ工芸品」としての黄金期を迎えます。

本章では、用と美を兼ね備えた美術工芸品としてのたばこ入れを紹介します。

さまざまな素材、さまざまな分野の職人が関わる手仕事の数々など、細部にわたる魅力をご覧いただきます。

 

Photo.10 銭菱手更紗腰差したばこ入れ[後期展示]

 

日本で好まれる銭菱手柄の布を贅沢に使い、本体とかぶせの柄が合うように仕立てられている。

緒締には最高級の紫水晶が使われ、筒には彫金の名手・栗田貞みん(正しくは王偏に民)による象嵌が施されている。

 

Photo.11 竹編一つ提げたばこ入れ

 

緒締も袋も竹で仕立てられている。

栃木の竹工芸の名工・飯塚琅かん(正しくは王偏に干)斎(1890-1958)の作。

 

【八代目桂文楽旧蔵コレクション】

近代を代表する落語家・八代目桂文楽(1892-1971)は、たばこ入れのコレクターでした。

そのコレクションは一時期80点を数えたといい、素材や組み合わせの素晴らしいものばかりでした。

森文楽が活躍した時代には依然としてきせるで喫煙する人も多く、落語家たちが楽屋でたばこ入れを見せ合う文化も残っていました。

文楽のコレクションは弟子の昇進祝いに贈ったり、戦争の混乱のために散逸したりもしましたが、当館ではたばこ入れ40点と、文楽が専用に誂えた箪笥を所蔵しています。

八代目桂文楽に限らず、六代目尾上菊五郎、五代目清元延壽太夫など、芸能に携わる人たちには、たばこ入れのコレクターが多くみられます。

 

Photo.12 白地鶏頭更紗腰差したばこ入れ(八代目桂文楽旧蔵コレクション) [前期展示]

 

白地の鶏頭更紗に、竹の筒、珊瑚の緒締、流水模様のうちわの前金具という涼しげな取り合わせのたばこ入れ。

 

Photo.13 たばこ入れ専用のからくり箪笥(八代目桂文楽旧蔵コレクション)

 

池之端・京屋での誂え品。

きせるの段とたばこ入れの段に分かれており、容易に引出しを開けられないようなからくりが仕掛けられている。

 

 

III 時の流れと袋物

幕末の開国後、海外との貿易が本格化すると、袋物業界にも大きな変化がありました。

新たな素材や鞄類が輸入される一方、根付をはじめとする従来の工芸品は観賞用として、たばこ入れはハンドバッグとして輸出されるようになります。

また、紙巻たばこがもたらされたことによって、業界の主力商品であったたばこ入れにも紙巻用が加わりました。

都市部の男性には徐々に洋装が取り入れられていき、懐や袂に入れていた紙入れ類は紙幣入れ(薄型の財布)となり、それまであまり使われていなかった手提げや西洋由来の鞄などが普及していきます。

しかし、女性の本格的な洋装化は昭和以降であり、男性も私的な空間では和装が多かったため、和装に合う袋物は必要とされ、袋物商たちは機能や形に小さな変化を加えながら需要に応じていきました。

本章では、幕末から平成まで営業を続けた神田の山本袋物店で扱われた袋物(山本コレクション)と、明治末期から戦後まで活躍した金工・鈴木春盛の図案帳などを通して、時代の変化のなかで店と作り手に求められた商品の変遷を紹介します。

 

 

【山本コレクション】

ビジネスバッグの名店として知られた千代田区鍛冶町のヤマモト鞄店は、幕末に開店した袋物店をその前身としています。

伊勢出身の初代直吉が文久2年(1862)に下宿屋を併設した「山本袋物店」を開店したことにはじまり、洋装の定着に合わせて昭和29年(1954)に「ヤマモト鞄店」と改称、その後平成24年(2012)まで5代にわたって営業を続けました。

同店では主に三代目が取り扱った和装向けの提物からハンドバッグまでを保存しており、一部は袋物の歴史を示すものとして店頭で展示されていました。

加えて仕掛品や袋の素材、根付、金具などの部材も保管されており、既製品ではなく、顧客好みの一点を組み上げる袋物商の生業を示す貴重な資料群となっています。

このコレクションは平成28年(2016)に当館に寄贈されました。

 

Photo.14 寄裂模様縫潰し腰提げがま口(山本コレクション)

 

「腰提げがま口」は、腰差したばこ入れの袋をがま口財布に、筒をメガネケースに転化したもの。

 

Photo.15 新川がま口 個人蔵

 

「新川」は側面の口から小銭を出し入れする仕組みで、袋上部の掛具を帯などに掛けて携帯する早道の系統。

 

Photo.16 袋物部材各種(山本コレクション)

 

Photo.17 金唐革ハンドバッグ(山本コレクション)

 

明治20年(1887)ごろには、女性用ハンドバッグとして手提袋が登場していたが、使用するのは上流階級に限られていた。

明治38年(1905)ごろには一般向けの商品が登場、大正8年(1919)には「ハンドバッグ」の呼称で売り出された。

Photo.17のように持ち手のないものもハンドバッグとして扱われた。

 

 

【鈴木春盛(1897?*~1959)】

時の流れに合わせて袋物業界に求められる商品が変わっていくと、製作する職人たちも持てる技術を転用して需要に応えました。

桂光春の高弟・鈴木春盛の図案帳と同時代の作品は、きせる喫煙からシガレットへ、和装から洋装へという大きな時代の変化に対応し続けた職人の姿を今に伝えます。

*享年より算出したため生年は未詳

 

Photo.18 バックル図案帳 個人蔵

 

帯留などの金具と異なり、伝統的なものだけでなく、洋風も取り入れた自由な画題が多い図案帳。

 

Photo.19 鈴木春盛 バックル かぶと虫 日本宝飾クラフト学院蔵

 

Photo.18の図案帳に、似たデザインが貼り込まれている。

 

 

IV 袋物商による袋物史

明治~大正期には多様な袋物が登場し、定着していくものもあれば廃れるものもある、袋物にとって変化の時代でした。

日本橋の袋物商イセダヰの代表社員・井戸文人は、大正4年(1915)4月に開催された「美術嚢物提物展覧会」の来訪者たちから袋物の通史を出版するよう請われ、その後も度々要望を受けて、『日本嚢物史』の編纂(へんさん)に取りかかりました。

大正7年(1918)には「美術嚢物提物展覧会」の写真集『嚢物逸品集』を、翌年には886頁に及ぶ袋物初の通史『日本嚢物史』を出版しました。

一介の袋物商に過ぎなかった文人ですが、『日本嚢物史』の序には、金子堅太郎や森鴎(正しくは匚の中に品)外、正木直彦をはじめとする著名人たちが名を連ねており、当時の袋物が負っていた文化的価値を伝えてくれます。

本章では、文人が東京美術学校(現・東京藝術大学)に寄贈した『嚢物逸品集』と『日本嚢物史』を通して、記録者としての袋物商を紹介します。

 

Photo.20 井戸文人著『日本嚢物史』 東京藝術大学附属図書館蔵

 

袋物初の通史として大正8年(1919)に刊行された。

 

 

【井戸文人(1874~1923)】

幼少時より絵を好んだ文人は、14歳のとき袋物商のイセダヰに奉公しました。

16歳のとき店内で独立営業を始めると、廉価品が中心だったきせる筒に自身でデザインをし、蒔絵や彫刻の職人に装飾させて売り出し、遂には美術品へと引き上げました。

その後、文人は江戸趣味の研究に走り、自作の漆絵を輸出したり、装飾革の輸出を試みたり、さらには主家の娘婿になるなど順風満帆に思えました。

しかし、主家が経営危機に陥ったことから、明治36年(1903)、文人が経営を引き継ぎます。

さらに翌年には日露戦争の勃発で袋物業界全体が不況となり、義父までが没するなど苦難の連続でした。

それでも、持ち前のアイデアと行動力でなんとか経営を安定させ、40歳で経営から引退しました。

その後、歴史資料が散逸し、江戸を知る古老たちが鬼籍に入る時期に差しかかったこともあって、41歳のときに嚢物史の編纂を始めたといいます。

椎の木屋敷(現・墨田区横網1丁目)辺りに住んでいた文人は、大正12年(1923)の関東大震災で、目の前にあった被服廠跡に家族と避難し、帰らぬ人となりました。

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