今から70年前の10月27日の日曜日、ABCで放送された『Disneyland(ディズニーランド)』の初回エピソードの司会者として全米中の家庭の視聴者に向け語りかけたウォルト・ディズニー氏。
その後『The Magical World of Disney(ザ・マジカル・ワールド・オブ・ディズニー)』などの名称で親しまれるようになるこのシリーズがどのようにしてウォルト・ディズニー・カンパニー、そしてエンターテイメント業界全体にとっての転換点となったのでしょうか。
前例のないテーマパークへの道を切り拓き、ハリウッドにおけるテレビの可能性を示し、近代的で多様なエンターテイメント企業のあり方を形作る基盤を築いた物語を紹介します。
ABCテレビシリーズ『ディズニーランド』から紐解く70年前に始まっていたエンターテイメントの可能性
当初から、自身の「最新かつ最高の夢」であるテーマパーク、ディズニーランドを視聴者と共有したいと考えていたウォルト・ディズニー氏。
全米の人々はこのとき初めて、ウォルト・ディズニー氏のさらなる創造の一端を垣間見ることができました。
パークの掘削工事は放送の約2か月前に始まったばかりで、開園予定は9か月後に迫っているという状況です。
この『ディズニーランド』の初回放送は、ウォルト・ディズニー・カンパニー、そしてエンターテイメント業界全体にとっての転換点となります。
前例のないテーマパークへの道を切り拓き、ハリウッドにおけるテレビの可能性を示し、近代的で多様なエンターテイメント企業のあり方を形作る基盤を築いたのです。
過去、未来、そしてファンタジー
1953年の夏のある晩、ウォルト・ディズニー氏はベッドの中で眠れぬ夜を過ごしていました。
長年にわたり、娘たちを連れて世界各地の遊園地や動物園、屋外アトラクションを訪れる中で、ウォルト氏はそれらすべてを凌駕する家族向けの楽しい遊園地を構想するようになります。
それは清潔で、想像力にあふれ、家族全員が過去、未来、そしてファンタジーの世界を訪れることのできる楽しい場所でした。
ウォルト氏は自身のビジョンがどれほど革新的であったかを確信しており、ウォルト・ディズニー・プロダクションの取締役会に対して
世界中を見てきたが、こんなものは他にない。
だからこそ実現すれば素晴らしいものになるんだ
と述べたといいます。
ウォルト氏にはすでに壮大なビジョンがありましたが、夜も眠れないほど頭を悩ませていたのは、このような試みをどのように実現するかということでした。
ウォルト氏は、パークの建設資金を調達する方法だけでなく、来園を期待できる人々にその存在を知ってもらう手段も求めていたのです。
眠れぬ夜にひらめいたのが、テレビを利用して彼の夢を実現し、世界中に共有するというアイディアでした。
まったく新しい方法でファンにアプローチ
現在では当たり前のように思えますが、1950年代初頭にテレビ参入を試みることは、それまで主に劇場映画の製作に携わっていた会社にとってはリスクと見なされていました。
ディズニーの取締役会は、すでにアミューズメントパーク事業への参入を進めている中で、新たな事業の追加に懸念を示します。
しかし、ディズニー・スタジオはこの10年間の初めにいくつかのテレビスペシャルで成功を収めており、
ウォルトは、自分のスタジオのクリエイティブな成果が、テレビを通じて効果的に、多くの人々に届けられることをはっきりと見通していました
とウォルト・ディズニー・アーカイブスのリージョナル・マネージャー、ケビン・M・カーンは述べています。
ウォルト氏のテレビへのアプローチは多角的であり、会社の将来にとって予言的なものでした。
テレビを通じて大衆にアプローチできる
とウォルトは語っていました。
カーン氏はこう述べています。
テレビを使うことでウォルトは新たなコンテンツを生み出し、新しいプロジェクトの宣伝を行い、過去の劇場ヒット作品やキャラクターをまとめて再登場させることが可能になりました。
それはウォルトにとって魅力的な展望でした。
ウォルト氏は、兄でビジネスパートナーのロイ・ディズニー氏、さらにディズニー取締役会を説得し、パークとテレビの計画を進めることに成功。
その結果、ABCと協力関係を築き、両社に多大な影響を与える提携が成立しました。
ABCはディズニーランドの支援に乗り出し、その代わりにディズニーは、ABCで放送するための長編および短編映画の膨大なライブラリーを提供するほか、毎週放送される新番組『ディズニーランド』を制作することに合意します。
この番組は、パークの進捗状況を定期的に紹介し、カーン氏曰く
アナハイムのオレンジ畑に何が建設されているのか
という驚きと期待を視聴者に与えました。
1954年10 月27日の初回放送は「大成功」であり、「視聴者はその後も増え続けました」と述べています。
『ディズニーランド』によって、ウォルト氏はテレビのストーリーテリング手法を試し、ABCでリアルタイムにディズニーランドの最新情報を提供することができました。
これにより両者は成長し、以前よりもさらに広い視聴者を引き寄せることができたのです
とカーンは述べています。
伝記作家ボブ・トマス氏は、著書『Walt Disney: An American Original』で
ディズニーのカートゥーンは、劇場公開中に観た総観客数よりも、各作品それぞれがはるかに多くの視聴者に見られるようになっていました
と振り返り、
ミッキーの国民的ヒーローとしての地位は、次の世代まで保証されたのです
と記しています。
1955年7月17日、開園日を迎えたディズニーランドには、ABCでの生中継も相まって、33,000人以上のゲストが詰めかけ、大変な盛り上がりを見せました。
ディズニーの ABC での成功はその後も続きました。
『デイビー・クロケット/鹿皮服の男』や『怪傑ゾロ』は大ヒットを記録し、ディズニーとABCのパートナーシップは、さらに影響力のあるシリーズ、『ミッキーマウス・クラブ』を生み出します。
このシリーズのおかげで今や世界中のディズニーパークで見られるミッキーのイヤーハットが生まれたのです
とカーン氏は述べています。
そのような要素のないアメリカのポップカルチャーの風景を想像するのは難しく、こうした番組が当時のテレビ放送や私たちの集団意識に与えた影響の大きさが理解できるでしょう。
ディズニーランドが現代のエンターテイメント企業の礎を築く
『ディズニーランド』の初回エピソードで、ウォルト氏は
ディズニーランドという場所とテレビ番組の『ディズニーランド』はすべて同じものの一部です
と語っています。
その言葉は、実に40年以上のち、現実のものとなりました。
1996年にウォルト・ディズニー・カンパニーがキャピタル・シティーズ/ABCと合併したときのことです。
ストーリーテリングのアプローチにおいて、両者の間には相互の尊敬がありました。
その敬意が結びつくことで、ニュース放送、印刷物、ラジオ、映画、テレビ、テーマパークなど、多くのプラットフォームにおいてより大きな成功への扉を開いたのです
とカーン氏は説明します。
さらにカーン氏は、ウォルト・ディズニー氏とロイ・ディズニー氏が、テレビやテーマパーク、クルーズ、動画配信サービスの登場以前から、
ディズニーの名は何か意味を持つべきであり、その何かは、常にクオリティであってほしいと願っていました
と語っています。
クオリティを中心に据えることによって、
ディズニー兄弟は、一度生み出した作品をさまざまな媒体や場面で展開できると確信していました
とカーンは続けます。
短編作品はテレビで再放送でき、長編映画はシリーズ化し特別プログラムとして取り上げられ、映画の物語やキャラクターは、テーマパークのユニークなアトラクションの基盤となり、商品は書籍やレコード、コミックなど、あらゆるストーリーテリングのニーズに応じて展開されました。
1954年に『ディズニーランド』が初めて放送されて以来、ディズニーは映画や商品にとどまらず、テレビやライブ体験などさまざまな分野でその存在感を確立し、各セグメントから生まれたキャラクターや物語が相互に相乗効果(シナジー)を生み出すようにしました。
この戦略は、70年前にテレビシリーズ『ディズニーランド』がデビューしたことから生まれ、今もなおディズニーが多角的なエンターテイメント企業として知られる理由となっています。
カーン氏はこう締めくくります。
この相互関連性を理解することが、ディズニーランドのようなコンセプト、そして企業全体の成功につながったのです。
70年前に始まっていた、テレビシリーズ『ディズニーランド』より、エンターテイメントの可能性を考察。
前例のないテーマパークへの道を切り拓き、ハリウッドにおけるテレビの可能性を示し、近代的で多様なエンターテイメント企業のあり方を形作る基盤を築いたウォルト・ディズニー氏の物語を紹介しました。